◎神心の内容。親切、神心といっても、神様の教えに基づいたものでなければ天地に交流しない。
%1患者が少なくなったという医者の参拝
%2原さんの神情。
%3岡山へ就職する中村徹美さんへ
%4進学について
昭和四十三年二月十九日 夜の御理解
%1ある病院のお医者さんが参ってまいりました。何々医学博士という博士号を持った。それが最近、非常にこの患者が少なくなったというんですね。それで、どういう様な気持で患者に接したら、病院が繁盛するだろうか、という御相談を受けたんですけれどもね。それで私は申しました。
%1あなた方の場合は、いうならば大事な人の命を、いわば預かられる様なもの。そういう、例えば素人では出来ない大変な御用をなさっておられるのですから、人が助かる事さえ出来れば良いという気持で御用をなさったら、そりゃ病院は繁盛するでしょうと、私が申しましたら、言われるんですよ。
%1いやそりゃ私も、もう医者になる時からですね、もうやはり、あの人が助かりさえすれば良いという気持は、今も昔も変わっておりません、持ち続けております。のにもかかわらず、その最近は新しい病院が出来たり致しましてですね、事々にそちらのその病院に取られてしまうと言った様な結果だとこう言う。
%1そこんところで、お互いがですね、やはり人が助かりさえ出来れば良いという思い方は、これは本当に神様のような考え方なんですね。
%1それで私の事を、まあ申しました。私もそうだ。もう今は、こういうまあ素晴らしいお広前で、お取次さしてもろうたり、御用さしてもろておりますけれども。私はこれで、例えば畳三畳でもいいと思うんですよ。ね。私がこうやってお取次さして頂く場が、ここに少しばっかりあれば、それで、まあ表の方には人が沢山集まっておられるけれども、順々にですね。お互い、しばらくちょっと待っといて下さいよ。もうそれで結構なんですよ。
%1%Vもう兎に角、人が助かりさえすれば、それは場所はどこでもいい。又は、どういう条件ででもいい。人が助かる事さえ出来れば良いのである。私の考えも、あなたの考えも同じなんだけれども。ね。只違うのはどこかと言うとね。私は、あの教祖の神様、教祖様が教えておって下さる。いうなら教えに基づいて、人が助かりさえすれば良いと言うのですよ。
%1%Vあなたの場合は、ただ人が助かりさえすれば良い。なる程立派な考えのようですけれども、ね。教えに基づかなかったら、やはりおたくが、今、患者が少ないというて困っておられるように、そういう結果になるんじゃないでしょうか。その為に、どうでもひとつ、どうすれば患者が一杯になるだろうかという様な事を考えられませずに、本当に人が助かる事さえあれば良い。金儲けなんかは、もう第二、第三の問題である。
%1%V人が助かりさえすれば良いという気持で、しかもそれが、み教えを頂いて、そのみ教えに基づいてそういう気持になられたら、大変な大繁盛をする事でございましょうと言うて、申しました事です。
世の中には、ね。信心はなくても、素直な素直な人があります。ね。正直な人もあります。けれども、その素直な人があながち幸せかと言うとそうではない。
%V金に不自由をなさっておられたり、それこそ正直者である為に返って、正直者が馬鹿を見ると言った様な世の中なんですよ。ね。そこで、結局正直であるとか、素直であるという。人が助かる事さえ出来ればよいという神心を持っておるからというて、人間が幸せになるのじゃない。ね。
%V教えに基づいた所の生き方。教えに基づいて、それが素直であれば、なおさら結構。教えに基づいて正直であれば、いよいよおかげ。ね。教えに基づいて、人が助かる事さえ出来ればという事になれば、もう最高なのだ。
%Vそのなぜ、その教えがそんなに問題になって来るかと言うとです。教えと言うものが、実を言うたら、もう本当の本当なのだからですよと、ね。教祖が天地の親神様からお受けになられた御信心、み教えというものは、これはもう最高、ね。もう一番尊い、本当な事、生き方なのです。教えというのは。
人間がこの、教祖の神様が教えられた生き方さえすれば、必ず誰でも、幸せになって行けれるというのが、教えの基、力なのです。だから、ね、信心せんでん、そげん悪い事しょらんけんでと言った様なものでは、全然ない事が分かります。そのお医者さん、今日、そのなる程、そういいなさると、ならここでも沢山なお参りがあると。
いつもここを通りますと自動車が沢山並んでおる。しかもそれが、この頃から、ここ前を通った所が、熊本とか佐賀の車が並んでいた訳なんですね。佐賀、熊本から参って、はあ佐賀や熊本あたりからでも参ってまいります。この頃から、東京からでもお参りがありましたと言うてから、たまがってしもうた。ね。
%2ですから、その信心しておかげを頂くと言う事。ね。今日、善導寺の原さんが朝の御祈念に参られて、今日、裏の御用だったんですから、ゆっくりしとられました。それでまた帰り掛けにここでお届けされるのです。先生、あの信心を頂いておるという事が有難いとこう言うのですね。
%2今、息子さん達夫婦が勤めに出ております。帰りの時間も丁度一緒頃、七時半頃帰ってきます。ですから、帰ってくる頃には、寒い時には熱い物の一つも作っておこう、ね。お風呂も熱すぎらん様に、ぬるすぎらん様に、そしてじゃぶじゃぶ擦る様な事のない様に、丁度めざめの時間に帰って来たら、丁度いい具合にお風呂が沸いておる様に心掛けさして頂いて、その事をなさして頂いておりますとですね。もう不思議に心の底から、有難いものが込み上げてまいります。とこう。
そういう様な、私は生き方をしておる人が世の中には沢山あると思いますがね。あゝ、もう今日は、嫁御が働きに出とるから、今日はもう、息子が、この寒い時に働いて帰って来るから、熱い物の一つも作っておこう。お風呂も丁度いい具合に沸かしておこう。ね。
そういう思い方をなさる、そういう風になさるという事はです。それは、まあ、いうなら誰でもそんな気持がするもんだろうとこう思うです。若いもんが働きに出とるから、帰って来た時には、もうやはり、これに直ぐ、お風呂に入ってもらえる様に、暖かい物の一つも作っておこうという様に。
ところが原さんが言われる様にですね。その、そういう様に思うたり、それを行のうたりしておりますと、心の底から込み上げて来る様な有難さがあるというのは、どこに違うか。ね。結局人情と神情の違いであると、私は思うのです。ね。
若いもんが、年寄りを大事にしとくと、又は覚えんごとなって働くけんでと言った様なものがないんですね。いかにも、こう、その若いもんの為に風呂も立ててやった。さあ、温くもしてやっておった。それは次に、気持良う働ける為にそうしてやると言った様なものが、どこにかある。そういう条件のない、いわば神心。
信心さして頂く者がこうさして頂く。教えに基づいて、それをさして頂くところにです。私は、神様がどこから湧いて来るか分からない感動を与えて下されるものだと思うです。ね。皆さんでも、やはりそうでございましょう。ね。そういう親切心を持たない人はないけども。それは、ただ教えに基づいておるか。ね。神様の心に添わせて頂く為に、そう成されておるのか。
ただ自分の人情、人間心で、自分の親切心、又は自分の正直心、自分の素直心だけで、それが成されておるという事は、もう大変な違いなんだ。教えを基にしてからの生き方。金光様の御信心はどこまでもそれなんだ。信心はどこまでも、教えに基づいたところの生き方なんだ。
%3今そこの、中村さん所の徹美さんが、明日から就職して岡山でしたかね、あちらの方へ参ります。まあ明日の八時に行くそうですから、私がここで、今申しましたけども。ね。遠く離れたからと言うて、神様はどこからでも拝んでも同じなんだ。遠いも近いもないのだ。問題は暫くではあったけども、本気で打ち込んで、ね。
%3例えば、朝早うから、朝の御祈念に参る前に、お水の一つも被ってからお参りして来たんですよね。そして、その有難いみ教えを頂いたそのみ教えが、あんたの心の中に残っておるんだ。遠く離れてもね。
例えば、どうぞ自分の考えで動かずに、み教えで動きなさいよ。という事を今、私はもう、これはまあ、あの人があちらへ就職してまいりますはなむけの言葉。自分の考えで動いちゃならん。日頃頂いておった教えを、教えを思い出さして貰い。
こういう時には右にする事が本当なのか、左にする事が本当なのかという事が直ぐ、暫くではあったけれども信心の稽古を本気でしておった時に頂いっておった教えが蘇った。そして教えに基づいた生き方さえすれば、徹美さんおかげよと言うて申します様にですね。自分の考えで動いちゃならん。いかにも自分の考えが立派であるように言うても、それは違う。
%4今、ひで子さんがとこでもそうである。お父さんやお母さんの気持は、子供にどうでも農芸高校を受けさしたいとこう言う。親の後を継がせたいとこなんだ。ところが本人は何か、飛行機に乗る学校に行きたいとこう言う。それを言うと僕の希望はもうなくなった。目の前が、お母さんのごと言うなら、目の前が真暗になるというて勉強も手に付かん様な事だとか。
%4そこでその、例えば本当の事を教えてやんなさい。ね。それから先は神様に任せるより他に仕方がないじゃないの。ひで子さんあんたが十代の時の考え方、二十代の時の考え方、三十代になって、もう何人かのお母さんになってから考える事と言うたら、考える事が違うだろう。
%4ほんに二十代の時分に思いよった事は、もう一人前の大人になったような気持で思いよったけれど。三十になって見たら甘い甘い、本当に若い時の考えというものは、本当なものじゃなかった事が分かって来る様に。ひで子さん、今度は四十になり五十になって来ると、もっと考え方が本当なものに変わってくるよ。ね。
%4そこでお父さん達もお母さん達もです、若い時に右が良かろう左が良かろう思ったけれど。ね。これは自分の体験から、だからひで子さんあんたの体験を子供に話してやんなさい。ね。十代の時に思いよった事が二十になって見て考えると、本当に甘い考えであった事が後で分かった分じゃ、もう取り返しが付かんのだ。
%4してみると、何十年か生きて来た、この世の荒波をくぐって来たお母さんの言う事の方が、あんたの考えよりも、いわばやや本当である事が分かるじゃないの。まあ、これを言うて聞かせて、あんたが分からんなら仕方がないけれど。ね。
%4私はあんたに、例えばお母さん達が辿って来た、例えば失敗を、また二度と繰り返えさせたくはない。お母さんの思う事、お父さんが思われる事の方が本当なんだ。ね。だから結局、ここは自分の思いというものを捨てて、先輩の人の言う事、先生の言われる事。ね。又はあんたの事を真剣に心配してくれるのは、なんというても両親なのだ。
%4あんたの事を真剣に思うてくれる両親の言う事を、ね、一遍通りは聞いて頂戴よと言う事になって。そしてそれでも、いいや僕はと言うなら、もう仕方がないじゃないのというて、僅かの時間でしたけれど。そういう意味の事をひで子さんに話した事ですけれども。ね。皆さんでもそうでしょうが。
はあ例えば、中村さんあたりの家にも、六十なら六十になられる方がですね、三十代の時代に思いよった事は、まだ若かった若かったと思いなさる違いはない。それだけ年を取るに従って、体験というものがものを言うて来る。ね。けれどもです、信心さして頂いていよいよ思わして頂く事は。そんなら五十になっても、七十になっても八十になってもです、その段々本当の事が分かる様になって来るけれども。
神様の思いに比べると、これはまた、天地程の開きがあるという事。そこで信心さして頂く者は自分の思いで動かずに、神様の思いで動かして頂く。いわゆる神様任せで行こうという事はそれなのだ。ね。神様が教えて下さる事は、私共人間の知恵やら力では分からないけれども。なる程、神様の仰せ通りにつか奉っております事がです。こういう幸せになって来るという体験を受けて行く事が信仰体験なんだ。ね。
それで自分の思いを、それを我情を捨てよという。そして神様のみ教えを基にしての生き方。神様が教えて下さる。自分な道と思うけども、神様が左と仰せられるから、左の方へ進んで行こうと言う様な、いよいよ、これは絶対の本当な事なのですから、その絶対な本当な事を本当な事と信じさせて頂いて、進まして頂く生活を信心生活というのだと言う風に、私は思うのです。ね。
信心の稽古をなさる方は、そういういわば、それを難しい言葉で申しますと真理と申します。ね。本当の理と書いてある。ね。それはどういう真理かと言うと、天地の真理なのです。いうならば天地の心なのです。ね。天地の思われる事なんだ。いわゆる神様が思われる事なんだ。
その神様が思われる事。氏子どうぞ信心しておかげを頂いてくれよという事はそれなんだ。そこで徹美さん暫くではあったけれども、あんたがここで一生懸命信心の稽古をさしてもろうて頂いたみ教えを基にして、これから就職のおかげ、その現場ね。自分の仕事の現場に於て信心を現わして行くのぞ、という事になって来るのでございます。ね。
お互いの日常生活の上に於ても、はあ今日は、子供が寒い所に働きに出とるから、風呂でも沸かしておこう。さあ熱い物でも一つ作っておこうと言うただけでは、その親心はなんとはなしに有難いけれども。湧き出る様な喜びにはなってこない。
ところがそうする事がみ教えだ。そうする事が神様の御心だと分かって、それを成さして貰う時にです。今日の原さんの体験じゃないですけれども。日々、はあ本当に、風呂が熱すぎらん様にぬるすぎらん様に、これも温めておこう熱くしておこうとこう思いよりますと、心からこう込み上げて来る様な有難いものが湧いて来るとこういうのです。ね。
神様の心に添い奉まつらして頂くから、神様が感動して下さる。神様が喜んで下さる。その心が、もう原節子さんの心の中に伝わって来るのです。ね。それ程に、例えば信心のみ教えを基にした所の生き方。それは、もう人が助かる事さえあれば良い。お医者さんでいうなら。
だからもう金じゃない。もう例えば入院代を払いきらん患者があっても、もう人が助かりさえすれば良いから、例えばタダででも養生してあげると言うただけではですね。しかし本当のおかげになって来ない。けども、そうする事が神様の御心なのだから。人が助かる事さえ出来れば、もう現金じゃない。
私は教えを基にして、こう患者に接するという事になって来る時にです。おそらく、そのお医者さんの心の中に感動が湧いて来るだろう。喜びが湧いて来るだろう。まあなんと有難い天職を頂いたものであるという事になって来るだろう。そこに病院が繁盛しないはずはないというおかげが受けられるんですよ。
ここも出来るだけどんどん信者が参って来る為には、どげんしたなら良いじゃろうかと考えた事は、これから先もないのですよ。問題は本当に人が助かる事さえ出来れば、しかも教えに基づいて人が助かる事さえ出来れば。その事だーけを私が思いよれば、人が助かっても下さる。集まっても来て下さるとですよと言うて。今日私がお医者さんに申しました様にですね。
そういうところをひとつ、あのお互い、なる程、信心によって教えに基づいた生活というものは、そういうものだという体験を、いよいよ積んだ上にも積み上げていかなければならんと思うのですよ。どうぞ。